代表紹介

代表

  • RYOHEI HIROMORI

    資格

    • 司法書士
    • 家族信託専門士
    • 2級FP技能士(ファイナンシャルプランナー)
    • 宅地建物取引主任者
    • 住宅ローンアドバイザー
  • 代表ごあいさつ

    私は経営者ではありません。「職人」の司法書士です

    私の仕事に対する信条は、私の法律知識、それに基づく経験を活かして「もっとこの世の中を良くする」「司法書士業界をもっと魅力ある、身近な業界にする」ことです。

    そのためには、「料金体系及び業務」は分かりやすく、公正・適正・透明度を追究します。

    そして、司法書士の廣森に任せて良かったと思っていただけるよう、私は業務の探求を怠らず、「職人」司法書士という「道」を愚直に歩んでいくことを、皆さまに対してここにお約束いたします。

  • 廣森司法書士事務所 代表:廣森 良平の経歴をご紹介します

    無邪気だった幼少時代
    • 昭和59年3月 豊中市立豊島西小学校卒業

    小学校時代は、週3日は剣道、週4日は兵庫県尼崎市東園田の進学塾で中学受験勉強に明け暮れる毎日を過ごし、比較的明るく活発な小学生であったと思います。
    剣道を習った切っ掛けは、当時、ジャッキー・チェン、ブルース・リーに憧れ、武道を通じて強くなりたいと思い、本当は空手・カンフーを習いたかったが、近所に剣道場しかなく、やむなく剣道を習う。
    剣道を通じ、小学生なりに礼儀・我慢強さ・忍耐力を養う。(養ったと思う?)
    中学受験の理由は、当時父が喘息だったので、将来医者になり「お父さんの喘息は僕が直すんや!」と両親や友達の前で豪語。
    小学生の時から、医学部を目指して、勉強を頑張る。

    不安定な少年時代
    • 昭和59年4月 豊中市立第1中学校入学
    • 昭和59年6月 家族の事情により、大阪市立北陵中学校に突然の転校

    年頃の多感な時期、家族の事情により、ある日突然、大阪市北区天満に引越し・・・。
    その時、私は突然の環境の大きな変化にあまり馴染めず、尾崎 豊に憧れ、不安定な少年時代を過ごし、性格もやや暗く、成績もあり得ない位急降下する。
    しかし、中学3年時に通った寺子屋式の学習塾に通い、次第に学業の成績も安定し、性格も少しずつ明るくなって行く。
    思うに、この塾の先生がいなければ、私は一生暗い人生を歩んでいたと思う。

    最高の仲間に巡り合えた、最高に楽しかった学生時代
    • 昭和62年4月 大阪府立池田高等学校入学

    楽しい高校生活を送るには、何か一つ必死で打ち込むものを見付けなければと思い、学校の校庭で一番目立って、一番格好良かったアメリカンフットボール部に入部。
    しかし、入部前は「アメフトの防具って、もの凄い高価なのではないか?」という不安がありました。
    ところが、当時は防具を引退した3年生のお古を譲ってもらえたので、非常に助かりました。(少し、匂いましたけど・・・。)
    実際にアメフト関連で購入した道具は、ヘッチン(ヘルメット)とスパイクだけでした。(古き良き時代です・・・。今の時代では考えられないと思います。)
    入部してからは、早朝から夕方遅くまで、部活に明け暮れる毎日を過ごすため、殆ど勉強出来ませんでした。
    ちなみに、ポジションは花形のクォターバック(QB)。
    とは言っても私は補欠で、レギュラーの同級生の子が「調子を落としている」・「怪我をしてしまったから試合に出れない」・「試合中にワンポイントで使う」という時だけ、公式戦・練習試合に出場。
    自分なりにエースになろうと必死に練習しました。なんせ、ライバルの同級生は中学時代「ピッチャーで4番」「100m走11秒台」という物凄いアスリートだったのです。
    上手くなりたいために、誰よりも早く朝練(たまに寝坊)・練習前・練習後に「タイヤ引き」・「パス練」、3時間目に早弁して昼休みに「筋トレ」、体を大きくするために、朝ごはんと夜ごはんに「納豆2個」・「生卵2個」そして丼ぶり3杯を食べていました。

    でも、3年間そのライバルの同級生に追いつくことは出来なかったです。
    そのライバルの同級生とたまに飲むことがありますが、「りょうへいのことを補欠と思ったことなんかないで!」と言ってくれましたが(少し上から目線で(笑))、酔っぱらっていたので、彼はそのことを忘れていると思います。(笑)
    しかし、こんな私でも、高校2年時の大阪秋季大会準決勝(対箕面高校12対14で惜敗)で最初で最後のタッチダウンパス、高校3年時の大阪春季大会準決勝(対関西大倉高校21対0で勝利)で最初で最後のタッチダウンランは、今でも鮮明に覚えています。
    先日、当時のコーチと22年振りに再会し、阪急石橋駅界隈で飲む機会がありました。
    その時、コーチから「大阪で優勝出来たのも、お前が補欠で腐らず「フォアザチーム」に徹したくれたお蔭や」と褒められ、私は本当に本当に嬉しく、目頭が熱くなりました。

    • 高校3年生春の大阪大会決勝で、箕面自由学園と対戦。7対3の僅差で優勝
    • 高校3年生の6月、大阪代表選抜のクォーターバックとして西宮ボウル出場。
    • 写真一番右上が私です。痩せてます。(笑)
      1989年西宮ボウル 対兵庫代表選抜

    • 写真一番右でボールを持っているのが私です。
      1989年大阪春季大会決勝 対箕面自由学園

    • 1989年 西宮ボウル 対兵庫代表選抜
      ボールを持って走っているのが私です。
      自分自身、一番気に入ってる写真です。
      ちなみに、すぐに倒されています。(笑)
      今となっては、夏にヘルメットをかぶり、全力で走りまわっていた自分が信じられません!
      しかし、今の体力は、この時の厳しかった練習のお蔭です。顧問の先生・コーチ・先輩、本当にありがとうございました。(怖かったですけど・・・。)

    その後、部活を引退し、勉強をしなければならないところ、引退後もほとんど勉強をせず、学校に黙って交通量調査・現場作業等のアルバイトに明け暮れる。

    • 平成2年3月 大阪府立池田高等学校卒業

    関西大学5学部受験も敢え無く全て撃沈。当初からの予定していた通り、浪人時代に突入。
    現在は、つぶれてもう存在しないが、阪急十三駅にあった、「大阪北予備校」(通称「キタヨビ」)に入学。
    しかし、「キタヨビ」の同じクラスで、高校時代アメフトのライバル校であった大阪府立豊中高校のプレーヤーと意気投合し、アルバイトに明け暮れる毎日を過ごす。
    そのため、夏の終わり頃まで、ほとんど勉強出来ず。
    秋の模擬試験での惨憺たる結果を目の当りにし、現役時からまったく成績が伸びてないことに焦りを感じる。
    秋頃から一日15時間位勉強机に向かい、次第に成績が伸びる。
    得意科目は「数Ⅰ」・「代数幾何」「基礎解析」(今でも、三次曲線のグラフを書いたり、接線を求めることが出来ます。)
    目標を神戸大学経済学部(二次試験は英語・数学のみ)に照準を合わす。(この時、小学生の時に抱いた、「お父さんの喘息を直し、医者になる」という高尚な夢は、跡形も無く砕け散っている。(笑))
    しかし、センター試験で大ポカをしてしまい、センター試験終了後、急遽目標を私立文系に変更する。

    • 平成3年2月 関西大学・関西学院大学の合計6学部を受験

    奇跡的に唯一、絶対落ちたと思っていた、「関西大学経済学部」だけ引っかかる。

    • 平成3年4月 関西大学経済学部経済学科入学

    学費、小遣い、車のローン及び、維持費捻出のためアルバイトに明け暮れる毎日を過ごす。
    この時、アルバイトで月々に稼ぐお金は、ゆうに30万円を超える。
    そのため、必修科目(ミクロ経済学・マクロ経済学・経済原論)・語学(英語・中国語)・ゼミ(財政学)以外の講義は殆ど出席せず。
    今、歴史・宗教・経済学・経営・マーケティングの本を真剣に読んでいるのであれば、あの時、もっと一般教養や専門科目の講義を真剣に受けていればと思う。

    • 平成6年4月 大学4回生になり、就職活動を開始

    40社以上のセミナーを受け、エントリーするも、常に学業成績の悪さを突っ込まれ、尽く撃沈。
    6月末、最後の面接の駒である、東証一部上場企業製薬会社を最終面接にて不採用になり(「野球で言うホームでタッチアウト!」。ホームでタッチアウトになるくらいだったら、なんでファーストでアウトにならなかったんだろう・・・と思ってました。)、7月1日時点で、すべての面接の駒が尽きてしまう。
    周りの友達は全員、一流会社の内定を貰っており、自分自信の不甲斐なさに失意のどん底に陥る。
    再度、就職活動を開始し、8月初旬頃、ようやく2社(コンピュータ関連・建設機械の専門商社)の内定を貰い、長かった就職活動を終える。
    就職活動を終えた後も、ひたすらアルバイトに明け暮れる。

    激動の新卒猛烈営業マン時代
    • 平成7年4月 某大証一部上場企業(商社)入社(広島に転勤)

    新入社員の入社スピーチの時「最速、最年少で役員になり、この会社の社長になります!」と役員の前で豪語。
    毎日朝5時半に起床し、誰より早く出社して、支店全員の机の雑巾がけをし、誰よりも遅くまで仕事をするという猛烈営業マンとして、仕事に明け暮れる毎日を過ごす。
    この時の営業スタイルは「夜討ち・朝駆け」と言った古典的なスタイルをベースに、新卒1年目ということもあり「爽やかさ・元気・怖さを知らない」という若さを全面的に押し出した営業手法をとっていました。
    実際、このスタイルこそ現在でも王道であると思うし、理想を言えば「ネット」と「古典的なスタイル」の融合がこれからの時代には求められると思う。
    そして、この営業手法で成績が上げるにつれ、いつしか「独立したい!」と強く思うようになる。
    しかし、独立するにも現時点では「お金が無い」「売れる物を作れるような技術が無い」「独立するための素材が無い」と思い、「とにかくこの会社で行けるところまで行こう!」と思ってました。
    法律について興味を持ち始めたのは、平成7年9月頃、仕事上「抵当権」や「質権」という法律用語が頻繁に出てきたので、本を読んで調べたりするうちに、先輩の紹介で行政書士の方と話をする機会があり、いつしか法律に関して興味を持つようになる。
    そして、平成7年11月頃には、法律の専門職である弁護士・司法書士・行政書士の何らかの受験を考えるようになり、独立ということを強烈に意識するようになる。
    そこで、平成7年12月頃、費用対効果・難易度・将来性・リスク・短期合格度・性格を総合的に判断し、司法書士受験を決意。
    冬のボーナス(手取り約80万円)をレック東京リーガルマインドの学費(約60万円)に充てる決心をする。

    • 平成8年3月 某大証一部上場企業(商社)一身上の都合により退社

    平成8年2月初旬頃に「来月の3月末で会社を辞めます。」と事業部長に上申するや否や、「引き継ぎを手早く済ませ、3月末まで建設機械のヤード(保管場所)で掃除でもしとけ!」という命令が下される。
    「廣森が会社を辞める」という噂が社内に流れた途端、香川県の高松支店、愛媛県の松山支店、山口県の下関支店の所長が「事業部長の下で働くのがキツイのではないか?退職を撤回して、うちの支店に来ないか?人事部や事業部長には俺が掛け合ったる!」という優しい言葉を掛けてくれました。
    「私のことをみんな気にかけてくれていたんだな~。」と私は凄く嬉しかったことを今でも鮮明に覚えています。
    しかし、「自分自身一度決心したら突っ走るタイプ」だったし、「若気の至り」というのもあり、みんなのオファーを丁重にお断りしました。
    事業部長の辞令後、本来なら、退職までヤードの掃除だけさえすれば良かったのだが、その時にダンプの運転・ユンボ・4tユニック・玉掛け操作を覚える。
    むしろ、毎日「つなぎ」を着て、汗と油とドロに塗れて、工事現場の作業員の方に、機械の手配や準備をする方が面白いことに気付く。

    この時、「自分に何があっても、絶対この技術で飯が食っていける!」と確信。
    3月末を迎え、入社時に「最速で役員になる」と豪語したものの、同期の中で最速で会社を退職する。(笑)
    退職する時の今でも事業部長の言葉は忘れることが出来ません。
    事業部長に言われたことは「お前は絶対、社会や人生を舐めてる!絶対に失敗する!」という言葉でした。
    しかし、その時、事業部長には「3年以内に必ず合格してみせます!部長、今まで本当にありがとうございました!」と深々とお辞儀をし、私は1年間お世話になった会社をあとにしました。
    そして、両親や親友にも「前向きの退職ゆえに、何も心配無用。3年以内に司法書士に合格してみせる」と豪語。

    辛くも充実していた受験時代
    • 平成8年4月 レック東京リーガルマインド司法書士15ヵ月合格コース入学

    あまりの暗記・理解することの膨大さに圧倒される。
    実は、ほんの少しだけ会社を辞めたことに「後悔」しました。(笑)

    なぜなら、覚えても覚えてもすぐに忘れるし、どんどん覚えていかなければならないことが出てくるからです。しかし、3年以内で合格すると両親及び、親友と約束したため、1日15時間の受験勉強を日課とする。
    何回も、何回も、何回も「過去問」→「解説」→「基本書」→「択一式受験六法」→「問題演習」の繰り返しでした。
    最初の頃は、まったく成績が伸び悩みましたが、次第に、成績が向上。
    成績が上がるにつれ、「勉強ってこんなに楽しかったんや!」と思い、学生時代にあまり勉強しなかったことを今更になって後悔する。
    第1回目司法書士試験前には、民法と不動産登記法の知識では誰にも負けない自信を持つ。

    • 平成9年7月 第1回目司法書士受験(京都会場)

    満を持して受験するも、新傾向の問題に対応出来なかったこと、得意の不動産登記法の書式で頭が真っ白になってしまったこと(試験開始30分間、何を書いたらいいかまったくわからない状態!→人生初めての強烈なパニック!)時間配分の戦略ミスで敢え無く撃沈。
    というか轟沈・・・。(得意だった書式がほとんど白紙・・・。)

    帰りの阪急京都線で窓の外の景色を見ながら、何とも言えない初めて体験する悔し涙を流す。
    帰宅後、頭脳面、肉体面、精神面、戦略面において何故合格出来なかったかを徹底的に分析。
    体力には自信があったし、頭脳面(暗記理解している事項の絶対量にも他の誰よりも自信があった)にも問題は無かったが、模試で全国1位の受験生でも不合格、全国下位クラスの受験生でも合格するこの司法書士試験には、精神面と戦略面の方が大事と確信。
    この時、廣森式司法書士受験勉強法を確立。

    • 平成9年8月 精密機械の搬送、再生紙製造を業をする運送会社で2tトラックの運転手として働く

    朝8時から夕方6時まではトラックの運転及び、荷物搬出のための肉体労働、夜は深夜まで受験勉強というハードな生活を送るも、肉体と頭脳をバランス良く鍛えていると思っていたせいか、毎日が楽しく、充実した気分で毎日を過ごす。

    • 平成10年7月 第2回目司法書士受験前日

    前日に風邪をひき、高熱が出て内科の先生に診察してもらう。以下、先生と私のやり取り。
    私 「明日は司法書士試験なので、今日は栄養を取って、薬を飲んでぐっすり眠ります。」
    先生 「アカン!アカン!!そんなことしたら、明日自分の力を発揮出来ないよ。
    毎日、勉強している人が一日でも勉強を休んだら、「アホ」になるよ!
    明日は試験時間は何時間?」
    私 「午前2時間、午後3時間です。本当に長丁場です。」
    先生 「そしたら、家に帰ったらまず2時間勉強して、1時間休憩してから3時間勉強しなさい。
    寝るのはその後にしなさい!」
    私 「ハイ!そのとおりにします。」

    その日は高熱で意識は朦朧としておりましたが、先生に言われたノルマである計5時間の勉強を終え、寝床に付く。

    • 平成10年7月 第2回目司法書士試験(京都会場)

    当日も体調が悪く、熱も38℃前後。
    しかし、熱ごときで負けるわけにはいかないので、当日は「気合・根性」で試験問題にアタック。
    1次試験終了後、手応えを感じる。
    しかし、2次試験終了間際20分前、書式で致命的なミスを発見!

    すべて二重線で消し、不動産登記の書式をほぼすべて書き直す。
    恐らく、1年前の自分だったらパニックに陥っていたと思います。
    しかし、この時も自分には「10分もあればすべて書き直しが出来る」という日頃からのシミュレーション及び、筆圧を最小限に解り易い文字を早く書く毎日の訓練のおかげで、パニックに陥ったり、まったく焦ることも無く、むしろこのミスに気付いたことにより、その時、心の中で強く、最終合格を確信。

    超極限状態でも、冷静沈着に答案の記載ミスを直す。
    試験終了後、あまりの恍惚感で3分位、立ち上がることが出来ず。
    今思えば、あの時あの内科の先生に診察して貰わなかったら、私の司法書士合格は無かったと思う。

    • 平成10年10月 司法書士試験合格

    自己採点では1次試験29問、2次試験31問(1次、2次共に35問出題。1次正答率約83%、2次正答率約89%)、書式不動産登記法及び、商業登記法ほぼ満点だったので、見に行く必要は無かったが、仕事を早退し、弟とともに京都地方法務局まで合格発表を見に行く。

    張り紙に私の受験番号「1」(受験願書受付開始日の早朝6時過ぎに、京都地方法務局へ直接願書を持参。(その時の受験票は今だに記念として保管)が燦然と輝き、私は溢れる涙をこらえ、一緒に見に行った弟に「兄ちゃんの頑張り凄かったもんな!」と言われ、弟と一緒に喜びを分かち合い、私たち兄弟は帰路につき、両親、親友に合格を報告。

    受験時代に使った司法試験択一式受験六法以外、基本書・テキスト・ノート・模擬試験をすべて処分。
    この時、すべてを積み上げるとゆうに自分の身長(177㎝)を超えていた。
    (多分、司法書士試験合格者はみんな超えると思う。)

    ダメな不動産営業マンが売れる不動産営業マンになるまで
    • 平成11年3月 八尾の小嶋司法書士事務所に入所(現在でも私の師匠。絶大な存在である)

    司法書士合格者なら実務は、「2~3ヵ月あれば出来る」と確信。
    独立をするなら、実務を覚えるよりも司法書士業界を外から俯瞰をした方が有意義だと思い、開業前に不動産業界で働くことを決意。

    • 平成11年6月 某大手東証一部上場のマンションデベロッパーに入社

    新人はマンションのモデルルームでの来場者の接客はさせてもらえず、電話帳(業界用語で「源泉」という。)で電話営業・飛び込み営業、そしてチラシをワードで 作成し、チラシ撒きの毎日でクタクタになって帰路につく。
    ちょうど、季節は夏真っ盛りであり、ハンカチではなく「ハンドタオル」、カバンの中には「ペットボトル」を持ち、この頃から半袖ネクタイなしという「クールビズ」を先取りした恰好で飛び込み営業に望む!
    インターホンでは門前払いなので、ドアをノックするようにしたり、わざと疲れた感じを出して、お情けで話を聞いてもらえるようにしましたが、まったくダメ!
    1階から飛び込み営業をするのではなく(声は性質上、上に行くので、上階に住んでいる居住者に居留守を使われるのを防止するため)、まず、団地の最上階に上がり、最上階から1階ずつ下りて行ったり、声のトーンを変えたりといった工夫をするが、これまたまったくダメ!
    そして、飛び込み営業終了後、夕方頃にモデルルームに戻り、少し休憩した後に、夜の9時まで電話帳を使って電話営業を開始!
    この時も、声のトーン変えたり、先輩営業マンのセールストークを参考にしたりといった工夫をするが、これもまったくダメ!
    最初の頃は「いつか売れるようになるだろう!」と楽観的に考えていただ、まったく引き合いの取れない状態が続く。
    入社して3ヶ月くらいは、上司も大目にみてくれたが、4ヶ月目からは、ボロクソに吊し上げられる毎日。(業界用語で「詰める」と言います。今でも当時を思い出すと、目まいがします。)
    毎日毎日、上司から「なんで?」「どうしてお客様は買わないの?」「お客様にこれを聞いた?」「これは言った?」「なぜ、これを聞かないの!!」「なぜ、このような提案が出来ないの!!」等々・・・。
    これが、電話営業終了後である夜の9時から10時過ぎまで延々と続き、私のせいで同僚も帰ることが出来ず、私は毎日毎日上司と同僚に謝っていました。
    そして、なんと、最初の半年間は営業成績はゼロ!
    (さすがに電話帳や飛び込みでマンションを売るのはきつかった。想像に難くないと思います。)

    • 平成11年12月 北摂の新築マンションを涙の初契約

    平成11年11月に新規の現場に入るも、新規来場者を接客させてもらえず、いつしか「モデルルームの掃除をさせたら会社№1」「チラシをポストに投函する速さが会社№1」「来場者の子どもと何時間も飽きずに楽しく遊ぶことにかけては№1」になる。(しかし、物凄い大事な仕事です。)
    平成11年12月頃、直属の上司から「廣森!そろそろお前もモデルルームに来場した新規来場のお客様の接客をするか?」と言われ、私は飛び上がるほど嬉しかったのと同時に「ここで契約取れなかったら、俺、間違いなく首やな・・・。」と覚悟。
    それでも、なかなか契約が取れず、毎日毎日詰められ、事業主からは「廣森には、まだ接客させたらダメなのでは・・・。」・「廣森外してくれ!」と言われ続けました。
    入社してから毎日怒られ、毎日自分なりに考えて営業に当たるも、まったくダメ!(今思えば、自分でも本当によくやったなと思う。)
    そして、ある日のこと、怒られることにいつしか慣れっこになってしまい、ある種、開き直った自分がいました。
    そこで私がとった行動は、「物件の良さを一切話さない」という大胆なもので、正直、「この担当営業マン、全然喋らないな。」と思われたと思います。
    そして、物件の良さを話す時は、「お客様に聞かれた時だけ」にし、無駄なことは一切言わないようにする。
    すると、お客様から矢のような質問が来て、私は簡潔・ゆっくりと・丁寧に答えていただけなのに、いつの間にか、お客様から「契約するにはどうしたらいいですか?」という質問が来ました。
    半年間営業成績ゼロの営業マンだった私には、今まで一度も聞いたことのないフレーズなので、一瞬、私の頭の中は「はぁ?」という感じで、私は、「契約の日程や段取り等を確認致しますので、少々、お待ち下さい。」と言って、バックオフィスの上司に報告しに行きました。
    そこで、頭が混乱していた私は「〇〇様が契約したいと仰ってるのですが、どうしたらいいですか?」という間抜けな質問を上司にしてしまい、
    上司から「アホか!」と叱責されつつも、私がお客様の購入の意思表示を取り付けたことで、上司の顔に笑みもこぼれていました。
    上司からのフォローも少し仰ぎながら、何とか初めて契約にたどり着けたのです。

    (今でも、そのマンションの前に通ると懐かしさがこみ上げ、お客様の名前・勤務先・年収まで覚えています。)
    初契約の時「廣森さんありがとう。廣森さんじゃなかったらこのマンションを購入しなかった」と言われ、その時今まで経験したことのない喜び(ドーパミンという脳内麻薬?!)が頭から全身に駆け巡り、「司法書士ではなく、もしかして、不動産の仕事が私の天職ではないか!?」と確信。
    その時の経験もあり、私の営業スタイルは「物件のPRはお客様に聞かれた時だけ」・「知らないことには知らないと言う。(当然、しっかり調査した上で、後日回答)」「中途半端なことは絶対言わない。」「ファミリー・ライフスタイル・パブリック・プライベート・住まいに対する思い・家族の将来の夢等、物件以外に関する話を中心に、絶対に売り込まない」と言ったもの。

    すると、平成13年1月の成績は、その現場では№2の成績を収めてました。
    しかし、それだけでは新築マンション営業では「スーパーセールスマン」にはなれず、営業成績は物件によって、正直、バラつきが激しかったです。
    なぜなら、成績を上げるために、スタイルには合わない、自分の意に反した事は絶対したくなかったので、よく、中途半端な営業マンと揶揄される。
    しかし、私には営業成績よりも、もっと大事にしたかったものがあったため、そのようなことはまったく意に介さないようにする。
    初契約とほぼ同時に宅地建物取引主任者に合格。
    勤務先の会社で、宅地建物取引主任者の試験科目である「民法」の講師も務める。

    • 平成12年12月 その後も営業販売の仕事だけでなく、開発や広告宣伝業務にも従事

    月間トップセールスも、たまに、ラッキーパンチで記録するも(たった2回だけ)、新築マンションの販売業務に疑問を感じるようになる。
    新築マンションは、どうしても早期完売いうことが企業の至上命題であり、すぐにでも購入を検討している、もしくは出来る(年収も自己資金も充分あり、買い替えを控えていない)お客様だけを丁寧に接客し、どうしても時間がかかるお客様(買い替えを伴う、ローン審査が困難な自営業者の方、今ではなくこれから購入を検討している方)のことは、蔑ろにする風土がある。
    この新築マンションの販売営業手法が、不動産業界のイメージダウンに直結しているのではないかという意見も、実は存在する。
    そこで、私は本当に時間をかけて、本当にお客様にあった住まいを販売するには、やはり中古住宅・中古マンションを扱う仲介業務だと思い、転職を決意する。
    ところが、転職を決意するも「辞表」をなかなか受理してもらえず、営業部長・開発部長から軟禁状態で退社の翻意を迫られる。
    その時は「営業として必要不可欠な人間だ!」「お前の法律の知識を駆使していずれ、東京の不動産証券化ビジネスに従事して貰いたい!」と言ったものや、「年収の希望はあるのか?」というものでした。
    しかし、私は「新築マンション営業の限界について」「不動産証券化ビジネスにはまったく興味が無い」「給与は十分に貰っているのでお金よりも、自分のやるべきこと」を軟禁状態ながら上司に訴え続ける。
    そのようなやり取りが約1ヵ月程続き、何とか円満に退社。
    今でも、その時代に知り合った上司とはたまに飲みに行ったりと可愛がってもらっている。

    • 平成13年3月 大阪府堺市の地場の不動産会社に転職

    仲介業務、新築戸建開発業務に携わる。堺市の戸建販売、中古戸建の仲介、マンション販売現場での部下の管理と月間休日2~3日という超多忙な毎日を送る。
    地場の小さい会社だったので、当然広告費等は少なく、やはり飛び込み営業、チラシ撒きに終始明け暮れる。
    大会社でのチラシ撒きや飛び込み営業は「やらされた感」があったのですが、小さい会社では会社の浮沈、自分の給与に跳ね返ってくるので、そうも行かず、飛び込み営業も戦略を立てて実行する。(飛び込み営業でも実はお家は売れるんです!)
    チラシ撒きも郵便ポストではなく、絶対にチラシを見てもらうように、土日の早朝5時頃から新聞配達員のように、一軒一軒新聞受けに入れたりしてました。
    こんなに、猛烈に働けたのも、初契約の時の「廣森さんだから購入を決定しました」というお客様のその声が聴きたいがために、休みが無くても、超多忙により体を壊しても、懸命に頑張れたんではないかと思う。
    今思えば、今の自分があるのは、間違いなく、不動産の仕事と私から購入を決断してくださったお客様のおかげであると確信しております。

    • 平成15年1月 兵庫県尼崎市の合同司法書士事務所に入所

    前年1月頃から受験時代の同期から「兵庫県尼崎市で、合同司法書士事務所に参加しないか」と打診される。
    私以上に出来る部下を育てるという仕事を最後に、堺の地場の不動産会社を退職する。
    平成11年から平成15年までの間、多くのお客様と出会い、多くのお客様から叱咤激励され、多くのお客様のお蔭で司法書士を開業する。

    半人前の司法書士時代
    • 平成15年1月 登記業務だけでなく、簡裁訴訟代理業務、成年後見業務に従事

    裁判事務では特に個人再生(小規模個人再生住宅資金特別条項)を得意とする。
    不動産業界出身だったせいか、「住宅ローンの返済がきつくなったため、家を売却したい。」という相談をよく、以前の業界の仲間から紹介される。
    しかし、住宅を売却しなくても解決する方法があると多くの依頼者に提案。
    任意売却に関連する破産申立書作成も多く手掛ける。
    また、他の司法書士が受託したがらない法人破産も得意とする。
    破産業務の受託は手続きだけでなく、家計収支の見直しも指導。
    家計収支の見直しを指導する理由は、手続よりも「これからどのように生活を立て直すことが出来るのか」「これからの人生をどうやって、どのように歩みたいのか」「何故、多額の債務に陥ってしまったのか」ということに向き合い、二度と後ろ向きな借入をしてほしくないからなのです。

    以前、債務整理をした依頼者が、「先生!また、一から会社を立ち上げます!」「先生!住宅を購入するので、登記手続きをお願いします」との連絡が、司法書士としての望外の喜びであり、私の誇りであり、私の仕事のスタイルに間違いはないと確信。
    簡裁訴訟代理業務は、最近はやりの過払金返還請求だけでなく、解雇予告手当等請求、請負契約における瑕疵修補請求に代わる損害賠償請求、交通事故関係当事者代理人等、他の司法書士がしたがらない、一般訴訟も得意とする。
    貸金業者の過払金返還訴訟は、今となっては最高裁の判例が確立し、若手の司法書士及び弁護士も手軽に行える業務であるが、平成15~16年当時は貸金業者側が勝訴するケースもチラホラ。
    過払訴訟の「任意性」を巡って、貸金業者の支店長やATMの技術者を呼び出しての証人尋問(反対尋問)を経て、1年間の時間をかけて勝訴判決を獲得。
    また、悪意の受益者の論点において、大阪高裁の控訴審にて勝訴的和解。
    この時の画期的な判決、和解については兵庫県司法書士会の実務研修としてのクレサラ業務の海千山千の司法書士の面前で研修講師を担当。

    成年後見業務においても、他の司法書士が受託したがらない、経済的虐待を受けているご老人の後見業務等を受託し、幅広い業務に従事。
    そして、一人前の司法書士として、人間としての修業時代へ突入。

    一人前の司法書士として、人間としての修行時代へ突入
    • 平成25年頃、4人体制の事務所経営(日本一の司法書士事務所を志して)

    平成25年頃、私は司法書士有資格者、司法書士受験生補助者、補助者の合計3名を雇用し、最初は4人の組織で事務所を経営していました。
    当時は、地域で一番、大阪で一番、近畿で一番、西日本で一番、全国で一番の事務所に育て上げたいという志がありました。
    順調に売り上げをあげていき、みんなの給料も上げていくことが出来ましたが、いつしか私は仕事を受ける営業、従業員のマネジメント、資金繰りと言った、経営に関する仕事に特化するようになってしまい、司法書士としての仕事はほとんど手を付けなくなりました。
    司法書士の仕事は全て部下に任せることが経営者の仕事だと自分自身に言い聞かせ、経営のジレンマにさいなまれながらも、とにかく当時はガムシャラに走っていたと思います。
    当時、私の恩師や他業界の経営者に私の経営に関する相談にのっていただき、「それを乗り越えるのが経営者」だと多くの方に諭されましたが、私のハートにはあまり響くことはありませんでした。

    • 平成26年頃 一旦4人の組織を解体

    平成26年頃、司法書士の有資格者は独立を希望したため退職、一人の補助者がもっと条件の良い職場に転職したため、当事務所は私と補助者一人の合計2名の事務所になりました。
    二人の従業員が事務所を辞めたということは、私はその二人に対して条件の良い職場を提供出来ていなかったということです。
    そのような自分の不甲斐なさにさいなまれ、当時、私は「経営者失格だ!」と自信喪失に陥っていました。

    • 為末大さん著作の「諦める力」という本に出合う

    この頃、自分の不甲斐なさから強烈な劣等感が芽生え、それが原動力となり、私は貪るように本を読んでいました。
    そして、自分の人生を決定づける、一冊の本に出会います。
    それが、為末大さん著作の「諦める力」です。
    皆さんもご存じのとおり、為末大さんは世界選手権において2大会連続400mハードルで銅メダルを勝ち取ったアスリートです。
    そして、陸上トラック種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者でもあります。
    しかし為末大さんも花形の100mから400mハードルに転向したときに、色々な葛藤に苛まれて大変な苦労があったと述懐しています。
    最終的に為末大さんは、競技を通じて「陸上をする目的は陸上競技で世界一になることであったのに、いつしか世界一になる見込みのない100m走の練習を諦めずに努力すること」が目的になってしまっていたことに気付きました。
    そこで、もう一度、陸上競技世界一という目的に向けて、手段である100mを「諦めて」400mハードル転向を決断しました。
    その後の為末大さんのご活躍は前述したとおりです。

    「諦める」とはネガティブなイメージとして捉えられがちです。
    しかし、「諦」という漢字には、「あきらかにする」、さらに「さとり」(仏教用語でいう「悟り」)という意味があります。
    つまり、「諦める」とはネガティブなイメージではなく、もっとポジティブな意味があり、為末大さんの著作を引用すると「自分の才能や能力、置かれた状況などを明らかににしてよく理解し、今、この瞬間にある自分の姿を悟る」と定義されます。

    • もう一度、24歳の頃に立ち返る

    為末大さんの著作を読んでから、私は肩の荷が下り、迷いが一気に吹っ切れました。
    私は事務所を大きくするという事を「諦め」、自分が司法書士としてあるべき姿をもう一度、知ることに努めました。
    そして、事務所を大きくすることが目的になっていた自分を戒め、もう一度、「なぜ司法書士になったのか」を思い返しました。
    私が当時24歳で司法書士を志したのは、法律を使って「人の役に立ちたい」「少しでも世間を良くしたい」ということです。
    そして、もう一度、司法書士を志した時の純粋で基本的な理念に立ち返ろうと思ったそんな時、改正信託法と出会い、家族信託の分野では誰にも負けない司法書士になろうと心に誓ったのです。
    家族信託の研究に研究を重ね、多くの税理士、弁護士、司法書士から家族信託に関する質問を受けるようになり、それにつれて口コミで私の家族信託のお客様はどんどん増えていきました。
    経営について考えるよりも、依頼者の最善を考えて家族信託の設計を考えることに喜びを感じ、その喜びが「人の役に立つこと」「少しでも世間を良くすること」に繋がっていると思うと、色々紆余曲折はありましたが、私は本当に幸せ者だとひしひしと実感しております。

    • 最後に

    いわゆる「士」という職業は国から認められているからこそ、その業を営むことが出来ます。
    とすれば、「士」は「社会の公器」であるといえ、事務所の利益だけを追求するだけでなく、「人の役に立ち」「少しでも世間を良くすること」が「士」には求められていると思います。
    人生100年時代とすれば、司法書士廣森良平は、「人生の折り返し地点」でやっと自分自身の使命に気付きました(少し遅すぎるかも知れません)。
    そうであるからこそ、司法書士としての自分の理念に基づく絶対的な価値観がぶれることなく、地元大阪で「人の役に立つこと」「少しでも世間を良くすること」を胸に誓い、今後とも業務に励んでいきたいと思います。
    そういった意味では、私は司法書士としての職業人生という「マラソンのスタート地点」に立ち、たった今、スタートを切り、司法書士としての自分のあるべき姿を「悟る」という「完走」を目指して走り始めたのかも知れません。

メディア取材実績

セミナー講師実績

  • 2020年01月26日
    豊中市蛍池公民館講座の講師

    「知っておきたい遺言、知らないと怖い相続放棄」

  • 2019年10月12日
    若狭税理士・行政書士事務所主催の
    終活セミナー第3回講師

    「簡単なようで意外とむずかしい遺言のこと…
    遺言・相続放棄・遺留分」

  • 2018年04月07日
    株式会社
    タイセイシュアーサービス
    による
    セミナーの講師

    「最前線!家族信託活用セミナー~家族信託を使った相続・認知症対策の具体的事例~」

  • 2018年03月10日
    日本FP協会徳島支部による
    セミナーの講師

    「民事信託の基礎から応用まで~民事信託を利用した受益権売買・事業承継等の事例紹介~」

  • 2018年03月03日
    株式会社
    タイセイシュアーサービス
    による
    セミナーの講師

    「家族信託活用セミナー~成年後見制度・遺言を超越した新しい財産管理手法~」

  • 2017年12月06日
    TKC経営支援セミナー
    (関西総合会計事務所主催)
    の講師

    「良い司法書士の選び方
    ⅰ)成年後見人編ⅱ)民事信託・家族信託編」

  • 2017年07月29日
    FP継続教育セミナーの講師

    「民事信託を活用した受益権売買、事業承継、暦年贈与等の事例紹介」

  • 2017年04月22日
    FP継続教育セミナーの講師

    「認知症でもあきらめない!相続対策に役立つ民事信託の基礎知識」

  • 2017年02月10日
    日本HappyEnding協会によるセミナーの講師

    「任意後見・信託と遺言の基礎知識」

  • 2016年12月07日
    一般社団法人
    かんさい相続サポートセンターによる
    セミナーの講師

    「親・子・孫3世代のハートをつかむ!民事信託・任意後見の活用法」

  • 2016年11月18日
    徳島県不動産会社様への
    セミナーの講師

    「認知症になっても相続対策を継続!遺言・成年後見制度を超えた「民事信託の活用法」」

  • 2016年04月19日
    一般社団法人
    かんさい相続サポートセンターによる
    セミナーの講師

    「不動産営業マンのための民事信託の活用事例~遺言・成年後見制度を超越した新しい財産管理手法~」

  • 2016年02月04日
    一般社団法人
    かんさい相続サポートセンターによる
    セミナーの講師

    「相続案件を獲得するために地主さまに伝えるべきポイント(初級編)」

  • 2015年02月02日
    一般社団法人
    かんさい相続サポートセンターによる
    セミナーの講師

    「相続増税に備える!今から間に合う相続対策~あなたとあなたの子どもと孫のために~」

  • 2014年11月18日
    大阪青年司法書士会研修の講師

    「元不動産営業マン司法書士のマーケティング講座~不動産屋との付き合い方、獲得方法~」

  • 2014年11月16日
    一般社団法人
    かんさい相続サポートセンターによる
    セミナーの講師

    「お父さんに遺してもらいたいとっておきの遺言書」

  • 2014年01月08日
    「第14回住宅ローンで困っている人を助ける
    勉強会」の講師

    「住宅ローン条項付個人再生実務」

  • 2013年10月26日
    FP継続教育セミナーの講師

    「住宅ローン破綻からマイホームを守る個人再生の基礎知識」

  • 2013年05月29日
    「第8回住宅ローンで困っている人を助ける
    勉強会」の講師

    「個人再生住宅資金特別条項」

  • 2013年04月09日
    「第7回住宅ローンで困っている人を助ける
    勉強会」の講師

    「個人再生住宅資金特別条項」